月明かりの下で―2



 ―――月の光は人を狂わせる。
 目を覚ます原因となった月明かりのことを思い、桜はそんな伝承をふと思い出した。
 夜の闇を照らす、硝子のように脆い光。それでも、母のように世界を包み込む優しい光。
 けれど、その一方で、その光に狂った存在たちがいる。
 曰く、その魔力によってその凶暴性が増す人狼ワーウルフ
 曰く、月の眷属ともいえる吸血鬼ヴァンパイア
 彼らはこの美しくも儚い光の下に狂い、そして多くの人間を傷つけた。
 そう考えて、ふと思うのだ。
 それはまさしく自分のことではないかと。
 夜の闇と、聖杯の中に潜んでいた闇―――それとは別に、己が狂う原因だったのではないのかと。
 だからこそ、月の光が怖い。いつかまた、あの日のように狂い、周りを傷つけるのではないか―――そう思えるから。
 そして、その光から、自分自身の闇から逃れるように居間に来たのは、ほんの数分前のこと。
 台所に向かい、コップに水を注ぎ、自問する。
「一体……どうしたらいいんだろう、わたし」
 けれど、そうつぶやいても返ってくるのは何もなく。そこにあるのは、ただ沈黙のみ。
 外の世界は未だに月の光に包まれているのか、台所の窓からその光が漏れている。
 そして、その光は、恐怖とは別に、自分の罪をさらけ出そうとする。
 否、桜自身何が罪であるかは気づいてはいる。けれど、己の心の中の闇で以って、そのことを覆い隠さなければならない。 そうしなければ、士郎とライダーに余計な心配をかけるだけ。それは嫌なこと。してはならないこと。
 だからこその、自問。何に囚われれているか、誤魔化したくて。自分自身さえもだませ得る答えを見つけたくて。 たった一言、どうすればいいのかと言葉を紡ぎ、自身の内に問いかける。
 それでも、出てくる答えは真実ひとつ だけ。それは違う、それではない、きっと他の答えがあるはずと、 何度も何度も問いかけ、自身の心の中により一層埋没する。そうやって、繰り返される悪循環。
 それはさながら出口のわかっている迷路。けれども、その出口とは別の出口を探して、より一層その迷路に迷い込む。
 落ち着こうと思い、水を注いだコップに口をつける。注がれた水は鉄の味がしたけれども、気にせずに一気に飲み干した。 そしてコップを流しに置き、昔のこと―――士郎と出会う前の日々を思い出してみる。

            ◇

 まだ小さかったころ、遠坂の家から間桐の家に養子に出された自身。 そして、魔術回路のない義兄に代わり、マキリの後継者となるための修行の日々。その日々は、思い出すのもおぞましい。
 何故ならそこはまさしく地獄。蟲で敷き詰められたプールに入り、幼い己の身を陵辱される日々。 それは本来行うべき魔術の修行と違っていた。新しく魔術を覚える際の楽しさなど無かった。
 なぜならマキリの魔術は臓硯のための魔術。自身のためではなく、ただ、臓硯の妄念 不老不死を果たす駒を育てる ためだけの魔術なのだから。
 それでも、それを耐えた。間桐の家を追い出されれば、最早どこにも居場所などないとわかっていたから。
 けれど、哀しかった。最早遠坂の家に戻ることができないことがわかったから。そして、父が自分をここに置いていってしまったから。
 そして、辛かった。覚える楽しさのない魔術を無理やり覚えさせられることとなったから。
 それ故に、憎かった。自分と違い、のうのうと遠坂の家にいる姉のことが。きっと自分のことなど忘れ去り、父と共に 幸福に暮らしているに違いないと思えたから。
 だから、死にたかった。穢された自身をこの世から消し去って、何もかも無かった事にしたかった。
 けれども、その想いをすりかえた。自分さえ耐えていれば、きっと丸く収まるはずと信じた。 悪いのは自分だけ。本来の家に居場所がないのも、義兄が本来継ぐべき居場所を奪ったのも、全て自分の責任。 ならばそれを受け入れるだけ。
 そう、所詮自分はただの器。「桜」という一人の少女の意思など、存在しない。
 マキリの妄念を形付けるためだけに生かされている後継者。 臓硯にずっと支配され続ける傀儡――それこそが、『間桐桜』だった。
 けれども、それは六年前から変化する。
 それはまだ、義兄である慎二が優しかった時のことだ。
 ある日、夕焼けの中、走り高跳びをしている赤毛の少年を見かけた。
 その少年は、何度もその高さを跳ぼうと挑戦しているけれど、それは、彼にとって限界以上で。
 何度挑んでも、バーに当たって失敗するばかり。
 それを見た桜は、もう諦めれてしまえばいいのに、と思った。
 所詮無駄なこと。ならば、それを切り捨てて、諦めてしまえばいい。 そうすれば、楽になれる。そうすれば、丸く収まる。どうしようもないから、諦めてしまえばいい―――そう思っていた。
 それはまさしく自分の境遇と同じ。
 誰かに助けて欲しいと願っているのに、誰も助けてくれない今の状況。
 そんなことをしても、救いの手なんて差し伸べられない。ならば諦めて、抵抗なんてしないで、 諦めてしまえ―――そう願っていた。
 けれど、その思惑とは別に、少年は何度も何度も挑み続けた。
 限界なんかない、絶対に跳べるはず―――そう信じて挑んでいた。
 その様は、傍から見ればあまりに愚鈍で滑稽ですらあった。体操服は土埃で汚れ、そして汗だくになっている のが遠目から見てもわかる。その汗が目に入ったときに汚れた手で拭ったのか、顔も泥で汚くなっている。 それに何度もバーにぶつかっているため、頭には瘤が、身体には青く痣ができているに違いない。
 それでも、諦めない。恥や風聞など関係ない。ただ、そこにあるのは信念。絶対跳べるはずと信じ続ける 想い。それを抱いて、少年は愚直に挑み続けた。
 その様子を見て、いつしか桜自身、それを応援していた。
 頑張れ、と。今は無理でも、次はきっと跳べる、それが失敗しても、次なら跳べる、それでも無理なら―――という風に。
 結局は跳べず、後片づけをして帰っていったけれど、その光景は、今でも瞼の裏に焼きついている。
 そして、その姿に憧れた。周りの世界に、そして全てに絶望しきって、ただ息をして、存在しているだけの「人形」である己。 そんな自分でも、いつの日かあんな風になりたい、と。
 それこそが、今の想い人たる衛宮士郎との初めての出会いだった。

            ◇

 その後、慎二に紹介されて名前を知り、そして自身の名前を教え、挨拶をしあう仲になった。
 その一年半後、怪我をした士郎の世話をするために、勇気を出して家に押しかけ士郎から合鍵をもらって、家族のようになり。
 そのことだけでも十分なのに、聖杯戦争でずっと自分の味方でいると誓ってくれた。
 そして今、士郎がいて、ライダーがいて、大河がいる。魔術協会の総本山たる時計塔 ロンドンには凛もいる。
 彼らは自分を「桜」として見てくれる。
 そう、今現在、目の前に広がるのはそれまでとは逆の世界。
 自分の意志で選び取り、そしてどうするのか自身で決めてかなくてはならない世界。
 蟲倉の中にいたときから、ずっと憧れていた世界。
 手を伸ばしても、決して自分なんかが存在できるはずがないと、諦めきっていた世界。
 けれど……

「やっぱり、わたしには、そこにいる資格なんてない」
 そう独りごちる。
 そう、そんな資格なんてない。
 何故なら、自分は卑怯者だから。
 臆病で、ずるくて、自分勝手な化け物なのだから。
 今日もまた、あの日の―――聖杯戦争の時の夢を見た。
 内容はいつもと同じ―――殺した人々の怨嗟の呻きの合唱。
 家に帰れば家族が待っていた男性が、
 仕事の心配をしていた女性が、
 明日友達と遊びに行く約束をしていた子供が、
 そして何より、己の手で持って殺した義兄と祖父が、
 口をそろえて言ってくる。

 曰く、奪った命をかえせ、と。
 曰く、のうのうと生きずに償え、と。
 曰く、生きているお前が憎い、と。
 その地の底から響くような声にうなされて、いつも目を覚ますのだ。

 一年前は、それほど考え込むことはなかった。
 何故なら、罪の意識に苛み、それに埋没する暇などなかったから。
 己の魔力の制御、己のサーヴァントであるライダーの現界に対する負荷、 新しい身体になった士郎の異変……と、問題ずくめだったから。

 けれど、今は違う。
 その問題は、自身の努力と周囲の協力の甲斐あってか、何とか片付いた。
 けれども、それと入れ替えに浮き彫りになった己の犯した罪。
 己の手で以って、生きるためのみではなく、ただ己の快楽のために命を奪った。
 自分自身の手で、数百人にもわたる命を喰らい尽くした。
 うなされて起きる度に、何度それを消そうと、何度やり直したいと願ったかわからない。
 けれど、そんなことをしても、結局消えない。己の身体のうち でくすぶっている。

「犯した罪は消えないけれど、それで困ったことになったなら、士郎を頼りなさい」
 時計塔ロンドンに行く前に凛は桜にそう言った。
 姉自身、自分が悩むとしたら、そういったことについてだと思っている。
「俺はずっと桜の味方だ」
「貴方はこれから幸せになっていいんですよ」
聖杯戦争後、そう士郎は自分に誓い、己のサーヴァントであるライダーはそう言ってくれた。

「皆、わたしの味方でいてくれる」
桜は誰に向けるでもなく呟く。
「そして皆、わたしがどう償うかってことで悩んでるって思ってるんだ」
続けて呟く。そう、皆自分が悩んでいるのは、償う方法を探しているから、けれど見つからなくて心を痛めているから、 と思っているのだ。
 けれど、それは違う。そう、違うのだ。
 奪った命の分は、自分で償わなくてはならない。それはわかりきっている。
 自分で犯した罪は、一生消えない。償いきれる、という保証などはない。それでも、それを果たしていこう。そう思ってる。
 でも、自分が罪の意識に囚われてるのは本当は別のこと。そう、それは――――
 
「やめよう、キリがない」
桜はそう呟いて、かぶりを振る。
 そしてコップを流しに置いて、部屋に戻ろうとすると、そこに誰かが声をかけてきた。

            ◇

「どうかしたか、桜?」
 振り返ると、そこにいたのは想い人である青年――衛宮士郎だった。
「先輩……」
 新しい身体になって、頭一つ分高くなった彼を見上げ、さっきまで考えていたことを隠すように、努めて冷静にそう言う。
 今は、今だけは、彼に会いたくはなかった。自分の味方でいてくれる彼。ただ、彼の前では、寝付けずに起きた、と思わせたかった。
 それを知ってか知らずか、赤毛の青年は問いかける。
「あ、ひょっとして、寝付けないのか?」
「ええ、そんなところです」
「……そっか。悪かったな、声かけて。急に明かりがついたから、泥棒かと思ってさ」
ま、うちなんかに来ても、盗んで金になるようなものなんて何もないけどな、と笑う士郎。
 それにつられて桜も笑う。そしていつもと変わらない士郎を見て安心する。聖杯戦争が終わり、新しい身体となった当初、彼は 連日熱を出し、その世話のために皆色々と奔走した。今でも時々身体が不安定になるときがあるけれども、それは自分とのパスが 通っているし、それに彼と――――
(って、何を考えてるの、わたしは!!)
そのためにやっていることを思い出し、桜は顔が赤くなるのを感じた。けれど、彼とそうなることは、自分のためでもある。
 聖杯とつながり、その膨大な魔力をもてあます自分。その魔力を士郎に分け与えることで、自分自身も安定している。 そしてそのことにより感じる彼の暖かさ、心臓の鼓動、手の大きさを思い出し、より一層顔が赤くなる。
「大丈夫か、桜?」
士郎が心配そうに声をかけてくる。そして手を伸ばし、熱を測ろうとしてくる。
「そ、そんなことより、先輩はどうしたんですか?」
誤魔化すように、慌てて桜は士郎に問いかける。
「俺?俺はただ、いつもの魔術の鍛錬して、月を見てたんだけど」
それがどうかしたか、と返す士郎。
「月を、ですか?」
「ああ、そうだけど、どうかしたか?」
「……いえ、何でもないです」
その様子に、士郎は思いついたように、
「どうだ、桜も一緒に見ないか?縁側に一緒に座ってさ」
と、誘ってくる。それは桜にも魅力的な提案に思えた。しかし、
「……いいえ、結構です」
と、桜は返す。
「なんでさ?」
「……月は、嫌いなんです」
そう呟く桜に、士郎は、
「そっか、ごめんな」
と、バツの悪い表情で謝る。その表情に、桜は罪悪感を感じつつ、
「いえ、わたしの方こそごめんなさい。じゃあ、わたしももう寝ますね」
そう言って、居間から出ようとする桜に対して、
「なあ、桜」
と、士郎は声をかける。桜が振り返ると、
「想いってさ、届くのかな?」
と、問いかけてくる。
「え?」
「だからさ、想いは届くのかな?」
「想い、ですか?」
真意を測りかねて、桜は聞き返す。それを気にせずに士郎は続ける。
「俺たちはさ、色々な想いを持って生きているけどさ、その想いって、本当に届いているのかな?」
どこに届くのか、ということは言わずに。どこまでも強く、憧れた青年が、ふと儚く見えて。
「俺の想いも、届いてるのかな?」
そう呟いた言葉は、何気ない言葉だったのかもしれないけれど。
「……ごめんな、桜。変なこと言っちゃってさ」
それは、桜の心に穿たれて。
「お休み、桜」
そう微笑みながら言ってくる士郎に、
「……先輩」
と、桜は問いかける。
「どうかしたか?」
微笑を絶やさずに、聞き返す士郎。
 その様子を見て、言ってしまおうと思った。これは、自分だけでは解決の出来ない悩み。
 これを口に出しても、先輩はきっとわかってくれる。それは、ただの傲慢かもしれないけれど。
「先輩」
もう一度、口に出して言ってみる。士郎は黙って、桜が話すのを待つ。
 その様子に、桜も言ってしまおうと、決意して、口に出す。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
そう言うと、士郎は何を聞きたいのかと、じっと桜を見つめてくる。
 互いに流れる、沈黙。士郎は桜を見つめる。その黒い瞳の中には、きっと桜が写っているに違いない。
 時計の秒針が時を刻む音が聞こえる。いや、これは自分の心臓の音か。そう桜は冷静に考えて。
 そして、互いに絡み合う視線。その様子に、心までつながっている様な感覚を感じて。
 けれど、口に出たのは。
「……ごめんなさい。やっぱり、何でもないです」
という、誤魔化しの言葉。
 その言葉に対して、士郎は何か言いたそうだったけれど、何も言わずに。
「……それじゃ、おやすみなさい」
そう士郎に言葉をかけて、出ようとする桜の背に、
「……何も、話してくれないんだな、桜」
という呟きが、かすかに聞こえる。けれど、それに聞こえないふりをして、桜は居間を出て、自分の部屋に戻った。


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